「余白」に満ちる世界線へ|琴川夕星

現代は、埋めることに長けています。

情報、タスク、予定、目的。


詰め込めるだけ詰め込み、

忙しいことはいいこととして語られる。


暇さえあればスマートフォンを開き、

動画を見ながら食事をし、

音楽を聴きながら仕事をする。


現代人は、埋めることに余念がありません。

埋めるためのコンテンツも無限に用意されています。


空いているから、埋める。

埋められるなら、埋める。


それは、ある意味で自然なことかもしれません。


。、。、。、


さて、ここで問いです。


余白とは「空いている」ことなのでしょうか。

なにもしないことが、余白なのでしょうか。


。、。、。、


僕は、

余白とは「満ちている」状態だと考えています。


満ちているから、

それ以上を入れる必要がない。


例えば空間。


テーブルの上に花瓶があるとします。

まだスペースがあるからと、オブジェを置き、本を並べ、果物を飾る。

そうしていくうちに、花は埋もれてしまう。


けれど、花瓶だけを置いた場合。

花瓶のまわりを取り巻く空間が、

花を際立たせる余白として「満ちている」わけです。


この「間(ま)」こそが、日本文化に伝わる“見立て”の概念です。


。、。、。、


時間も同じです。


予定のない日。

空いているから、用事をつくる。

これも有意義な選択です。


けれど、「その一日が余白で満たされている」と考えることもできる。


余白とは現象そのものではなく、

心の向け方なのだとおもいます。


“足るを知る”とは、

余白を生み出すメゾットなのかもしれません。


。、。、。、


満ちていると思えば「余白」———

欠けていると思えば「空白」———


コペルニクスの地動説。


状況は同じでも、心の向け方によって見える世界が変わります。

そこには、正解/不正解もありません。


・一杯のコーヒーを呑む時間

・植物を鑑賞する時間

・芸術に触れる時間

・間(ま)


それそのもので満たしてみる。

目に見えないものが、やわらかく湧き出すイメージ。


もしかすると、こんなところに

現代社会の窮屈さから抜け出すヒントが隠されているかもしれません。


 

itoyufu.が、そんな場になることをめざして。


。、。、。、

 

藝術喫茶いとゆふ コンセプター/寿司職人

琴川夕星